うしおととら、囁く者達の家
〜なぜとらと流はヴィタエ兄弟と、潮と日輪はメイ・ホーと戦ったのか〜
(以前Twitterで書いたのですが、漫画で描くのがアレなので文にして纏めました。)囁く者達の家のお話は原作17巻、獣の槍破壊の一連の流れにあるお話ですね。中盤の要のお話で獣の槍をめぐってかなり話は動くのですが、獣の槍破壊のための一連の騒動の終着点の戦いの場がこの"囁くもの達の家"になります。
キリオが生まれ育った"囁く者達の家"。ここで生まれたであろう者達はいろいろいます。
■デザインからして九印の出来損ないの者達
○ヴィタエ-418、427の鏡持ちブラザーズ
♡(私の二次元の初恋の美少女かつうしおととらのメインヒロイン)メイ・ホー
■ゴーレム
■九印
ですね。
メイ・ホーいわく「この家にいる子達はみんなキリオを守るために創られた。」 のだそうで。
九印は最期までキリオを守ってた事を考えると、確かにそうだったんだろうなと思うのですが、ここで私が注目したいのは九印ではなく、"ヴィタエ418,427"と"メイ・ホー"。
この周辺の話、初回見た時はどちらかといえば日輪の掘り下げのイメージが強かったんですよね。男勝りなイメージがどこから来てるのかがメイ・ホー戦で分かるので。流はそれまでのイメージ通り逃げるふりしたりちゃんと戦ったりで、「ああ流だな」って分かる戦い方をしますし。ただ一度うしおととらという漫画を全部読んでから"秋葉流"と"関守日輪"のその後とそれぞれ戦った敵に注目してみると戦った相手の特徴が非常に暗示的なんですね。
とらと流の敵はヴィタエ-418,427で鏡を使う。
潮と日輪の敵はメイ・ホーで水を使う。
明鏡止水という言葉があります。
辞書をひくと"心に邪念がなく澄みきっているさま"。
これまんまじゃないかなって。
流の心にはずっと風が吹いていました。それはとらと戦って最期の最期にやむのですが、このヴィタエ戦でも吹いていたのでしょうね。 ただこの時もとらと戦っていました。ただし味方として。
とらと敵として戦う時に流はこう言い放ちます。
「俺はもっと早くにお前と戦っておくべきだった。」と。
いつそれ思ったんだろっていうのが気になって。まるでヴィタエの鏡で自分の心を照らすように自問自答してしまったのかな、と。
それまで何かくすぶっていたものをヴィタエ兄弟の鏡で明らかにしてしまったのかな、と。
まぁ白面の使いにも見破られてはいるのですが、後々考えるとこのヴィタエ戦が伏線に見えてしまったんですよね。
一方の日輪。
日輪はなんというか、男だ女だという事に少し拘ってしまい過ぎている嫌いはありますよね。メイ・ホーと戦う直前にも潮に「女だから家で編み物でもしてろって?」「戦いの才能があれば男も女も関係ない」と食ってかかるシーンがありますが、本当にそういった事を意識している。そんなの関係ない関係ないと言い続けている事が逆にその性という事を意識してしまっているように思うのですが、その原因がメイ・ホーに乗っ取られた時に脳裏に浮かぶシーンで明らかになるんですよね。
「お前が男だったらなぁ…。」
と言われた過去。
多分言われ"続けた"んでしょうね。トラウマと言ってもいい。 それを払拭したかった。
そしてここで戦っているの、メイ・ホーなんですよね。
このメイ・ホー。メイ・ホーだけ戦いのけしかけ方が少し違うように思えて。
九印の出来損ないは"階段から降りてきた"。
ヴィタエの鏡持ちブラザーズは"通せんぼ"した。
ゴーレムはキリオの出来損ないの部屋に"近づいてきたのを攻撃してきた"。
ゴーレムは攻撃された理由が実ははっきりしないんですが、侵入者に対して明らかに攻撃性を持ってきてるんですよね。
メイ・ホーは何が違うって、"部屋に入ってきて少しお話してから"攻撃してるんですよね。
ここが何か凄く気にかかって。
書斎に入ってこられなかったらメイ・ホーはどうしたんだろうって。
なんかメイ・ホーってもしかしたら一番出来損ないの子だったのかなって思っちゃうんですよね。
いた場所は書斎ですよ。そこでただ掃除しているだけ。
常にキリオの周りにいる九印。
キリオの出来損ないの置かれている部屋を守っていたゴーレム。
恐らく屋敷内を自由に動く許可は与えられていたであろうヴィタエ兄弟。
門番めいた九印の出来損ない。
書斎を掃除するメイ・ホー。
この家にいる子達はみんなキリオを守る為に創られた、と言いながらその任務の遂行し易さというか、重要度は一番低いように思えて。
そしてこのメイ・ホーがしている事は正に日輪が言う「女だから家で編み物」に近いんですよね。
引狭から「お前は女(メイド)だから掃除していろ。」って言われてたとしか思えないんですよ。
そしてそれに反発する事もなく、5年もの長い間きちんと守っていた。
それが日輪とメイ・ホーの違い。
メイ・ホーの攻撃方法は日輪の身体の中に入って意のままに操る事。日輪はメイ・ホーにそう簡単にさせないのですが、ここ、なんか女性性を受け入れるという事の暗喩に思えてしまって。
日輪は最終戦、「私は私、関守日輪だ!」と吹っ切ります。男だとか女だとか、伝承者候補とかではなく、ありのままの自分を受け入れます。いろんな物を飲み込んだ結果そうなったんでしょが、それのきっかけがこれだったのかなって。
心の中で荒れ狂っていた水の流れが止まったように、なにか一旦見つめ直すきっかけになったんじゃないかなって思えてしまって仕方ないんですよ。
メイド服着た女の子が女性性の象徴でなくてなんだっていうね。
これはあくまで自分が思った事ではあるのですが、17巻のこの2つの戦いは、流と日輪の後々の運命を考えると印象的でしたので。
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